投稿

3月, 2021の投稿を表示しています

ゆとり直撃世代 25歳にして精神障碍者手帳2級無職が観たシンエヴァンゲリオン劇場版

イメージ
この記事は、この映画について考察することはない。 只今 本作にネットを揺るがしている「お祭り」的なコンテクストで話させてもらう。 その上で、エヴァンゲリオンというアニメマニアに敷かれた踏み絵、或いは洗礼。通過儀礼。という形で話す。 先ずは自分語りから行こうか。 私がエヴァンゲリオンを知ったのは物心つく前のスパロボアルファ。 序が作られた小学ごろに旧エヴァTV旧劇をみて、素直に思った感想は「こらえ難いアンダーグラウンドな衝撃と重さ」だ。 そんなバイアスが掛かっている状態で観たエヴァはひたすら嫌悪でしかないコンテンツだった。同時に、蟲毒的な魅力が重いIPだとも思った。 中学生の時に公開された 破。スパロボα3でその嫌悪していた部分を晴らせていたので、特に破に衝撃は受けなかった。 当時巷や中学の中までも席巻していたけいおんの延長線上にあるような、さわやかな映画だと感じていたのは確かだ。 しかし、やはり年齢を重ね、いまや私は25歳。 それなりに沢山アニメも映画も見てきて辿り着いた今日。私は本作を見た。 予定調和という ことばを出そう。 予定調和的なカットが多いと思ったのが、農村とネルフ突撃とミサトがシンジをかばう中盤ぐらいまで。 予定調和は嫌いだ。先の展開が考えるまでもなく読めてしまうからだ。 だが予定調和は作劇において普遍普通のものであり、自分が求めていた予定調和には満足する。 しまりんが野クルとキャンプするという予定調和も、和みという予定調和を求めているから好きなのだ。 予定調和は嫌いだが、求めていた予定調和には好意をいだく。 サイコパス3最終回のファックみたいな予定調和には嫌悪をいだく。 悪い予定調和が続いていた本作は、後半において予定調和がなくなる。 先が読めなくなる。 シンジとゲンドウとの決闘と和解。 エヴァンゲリオンとは父と子のギリシャ悲劇のようなものだった。 そこは読めなかった。 そして清算される今に至るまでのエヴァのピリオド。 私は、この映画は点数をつけるものではなく、先の、オタクとしての踏み絵通過儀礼洗礼として完璧な終わり方だったと考えに至る。感動を求めた完璧ではなく、総決算が終えた時の、時代が変わったような感覚。 僕は僕より上の世代の人たちの、エヴァに執着心と社会現象を目の当たりにした抗いがたい出来事を共有する人間ではない、ゆとり直撃世代だ。僕は特にエヴ