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20190831 理路整然されてない所感をディティールを忘れないうちに無理矢理纏めてみるテスト

まえおき。これは映画史という広い目線ではなく、「ワンアポ」というタランティーノの一つのフィルモグラフィーとして語らせていただく。タランティーノ作品を映画史観に則らずに捉えるのは反知性的であると叱られるかもしれないが、タランティーノが一つの大衆映画を撮ろうとする人であることは事実である。 タランティーノの描く暴力には、二つの種類がある。緊張を与える暴力、笑いを呼ぶ暴力。 「フィクショナルなリックとクリフの映画」「実在するハリウッドと、事件と、シャロン・テートの映画」の二面性を持つ本作は、現実的なメタフィクションというこれまでにない形で表現される。噛み砕いて言えば、60年代にディカプリオとブラピがそのままタイムスリップして“役者役”を演じているような奇妙極まりない映像がこの映画だ。 60年代に降臨したディカプとブラピにはある種の神々しさを放ち、二人は現実と非現実の狭間に立つように動く。 そして、この現代から送られた神々しき使者である二人は、史実に起きた事件に立ち向かう。 そこで発生した暴力は、「喜劇的な暴力」に帰結し、史実を塗り替える。 ここで僕が「喜劇的な暴力」と言ったのは、最初に言ったタランティーノ特有の緊張を与える暴力と笑いを呼ぶ暴力が止揚したように思えたからだ。 喜劇が、身の毛もよだつ現実性を持った緊張感のある悪意を粉砕する。 この、史実・現実の悪意を喜劇を以って粉砕する構造は、「イングロ」や「ジャンゴ」や「ヘイトフル」でも見られた。 これが、いわゆるP.C.を求められる近年の映画に対する、タランティーノ我流の切実なスタンスなのだ。 今回は、過去作と画一し、フィクション性と現実性の二面を、明確なコントラストで映した。 これはタランティーノは新たなる映画表現の試みを我々に提示したということなのだ。

【漫画進捗リセット0日目】「悲しき熱帯」

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【漫画進捗リセット0日目】 「悲しき熱帯」 Galileo Galilei / Birthday  世間は涼しくなったと云うが、わが横浜の、臨海部の夏は東京より暑い。海水の蒸発した湿気でそう感じるのだろうか。東横線に乗り、渋谷に降りると、向こうの方が涼しく感じる。  今日、僕は25歳になった。 四捨五入してアラサーの仲間入りである。一廉(ひとかど)の漫画家を志すワナビの端くれとしては、今日までロクなキャリアを積み上げてこれなかった人生に慙愧の念を堪えられない。  文筆家・村上龍は云う。小説家になりたければ、読者に伝えるべき必要な情報を手にした時に、それを表現すればいいのであって、年齢も社会的身分も関係ないと。(出典:13歳のハローワーク) 漫画家は少し違うと思う。一般向け商業漫画界は文芸界より活発な市場原理で動いているように思える。年齢。キャリア。契約を履行する信用。それらはやはり大きなファクターに感じる。 無論、成り上がるすべは入賞して商業誌デビューするだけではない。多くのファンを作り、同人・インディーからのし上がるセオリーも確立されているのも事実だ。  ひるがえって、僕は一昨日ぐらいから、更に行き詰まった新しいネームを消去した。再始動させたプロットはやはり面白くなかった。また新しいプロットを思いついては、消していく。そんなループは勘弁願いたいのだが。  と、まぁ泣き言を連ねても仕方がない。 このまま27クラブの扉をノックするのはごめんだ。 僕は、夢を捨ててカタギのように生きる気はない。表現したいことがアタマに渦巻いているのだ。 情熱は25歳になっても消えていない。年齢の数値を重ねようと、心は漫画家を夢見た小学生のままだ。 ここからの俺の人生は商業にしろ同人にしろ、渦巻くコモンセンスとの勝負になるんだろうけど、やれるとこまで試してみる気力は十分ある。  また新しい起承転結を練るため脳を働かす。 やるさ。やってみるよ。