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【進捗34日目】

・現状 実は中盤からのプロットの練り直しを一回行って、ようやく形になった。前回の応募作では1週間で頭からケツまで書き上げられたが、今回は難航したわい。まぁまだ違和感あったら治す余地はあるんですけどさ…。 富野由悠季「映像の原則」曰く、作品の音楽的なリズム感を掴まなければならない。とのことだけど、これは漫画にも言えることで、1ページに情報を詰めすぎてもいけないしスカスカでもよくない。都度に応じてページをブラッシュアップする必要性を感じた。「映像の原則」めちゃめちゃ良著ですよコレ。これに書かれてる原則は漫画のみならず小説、文章にも応用が効く。 あと当面の課題。黒髪の塗り。黒髪キャラの髪をハイライトやトーンにこだわって描きたいけど、難しすぎじゃないですかこれ。 ・映画 映画館はジョーカー以降行けてない。空青もジェミニマンも見たいけど時間的余裕で難しい。 Amazonプライムで映画をサブモニタで常時片手間感覚でBGVのように観て作業してました。 なかでも印象に残った、思わずサブモニタの方に引き込まれたやつあげとく。 まず『ダイ・ハード』、改めて見るとすごいね。伊藤計劃をして「スイス時計のような精巧に構築された映画」時雨沢恵一をして「物語を書こうとしている人はまず見るべき作品」。演出は、比喩表現じゃなくて、分かりやすさに特化すべきだと思うと思った。例えばハンスの銃がシルバーなのは闇で目立つからとか、ハンスを殺したあとラブシーンはどうかと思うから銃にトラウマを持ったパウエルに最後始末させるとか、いちいち細かい。すごい。 次にランボー/最後の戦場。これも完璧な映画だと思う。まず、起承転結の移り変わりを30分単位で区切ってる。無駄を極限まで削ぎ落として、戦場で行われる残虐行為、暴力のおぞましさだけをシングルテーマにカメラが回り、編集されている。すごい。 ・デススト これも時間的余裕で発売日からプレイするのは難しいなあーー。すっげーやりたいけどねぇ。ゲームってプレイ時間ウン十時間余裕で奪われるから怖くて、落ち着いたらやりたいな。 最新トレーラー。これを観て思った。確実にメタルギアシリーズは古いものになった。超大国が世界の警察のように振る舞うこともなくなったし、多様化する世界で、一つの意志が世界を管理統制する時代じゃなくなったから、愛国者達というKOJI

PSYCHO-PASS 3 第一話 所感と期待

PSYCHO-PASSのナンバリングされたテレビシリーズには、それぞれバックボーンの学問があった。 1期は文学。2期は論理学。 そして3期。私は幾何学がバックボーンなんじゃないかと推測している。 PSYCHO-PASS3 第一話 要点を整理する まず、ライラプスの猟犬の神話( ライラプス - Wikipedia )がキーワードとして第一話で示された。 「猟犬」として使命を託されたであろう灼と炯。「狐」になる野心を持つインスペクター(些々河)。 猟犬(犬)と狐。一見すると似ている動物である。だが、捕食者と被食者という関係も併せ持つ、似て非なる動物である。さらに、猟犬とは人間に使役される動物で、狐は人間を化かす逸話のある動物。 PSYCHO-PASS3は、おそらく神話のエピソードのような、猟犬と狐の追走劇の図式が描かれるだろう。 しかし、前述の猟犬と狐の関係性には多様な見方が出来る。まるで、OPの曲名にもなった「キュビズム」のようだ。そして、キュビズムは幾何学の一部である。 作中登場したキュビズム・幾何学に関連するモチーフは、第一話時点だと、「猟犬、狐という発言」「OP映像の、格子(幾何学模様)に隔てられた常守と入国者たち」「梓澤のダイヤグラム」「数学者リック・フェロウズ」「犬とも狐とも似つかない灼の幻覚」「メンタルトレース」「公安局とビフロストとインスペクターがそれぞれの見地で関与する輸送機事故」 ざっと思い返してこれだけ出ている。 だいたい主人公慎導灼の能力がそもそもキュビズムそのものじゃないか。 過去シリーズでシビュラシステムを、槙島聖護は文学的観点。鹿矛囲桐斗は論理学的観点で見ていた。 複数の勢力が入り交じる今シリーズ。灼のほか、OPにも未登場のキャラが写っていたし、誰がどのようにしてシビュラシステムを幾何学的観点で見るのだろうか。 そのほかに気になる点は、「色」のことだ。 PSYCHO-PASSの主要人物には何らかの色のモチーフが与えられていた。 狡噛慎也は深夜、黒。槙島聖護は正午、白。常守朱は、深夜と正午の中間の色である、朱。東金朔夜は漆黒と評され、鹿矛囲桐斗は透明人間となぞらえられる。 OP映像を見ると、灼が赤い目をして、炯は青い目をしていたのが印象的だ。 また、OP曲のフルバージョンにも直接「色相」という単語が

PSYCHO-PASS3 第一話 要点を整理する

PSYCHO-PASS 3は、シリーズ至上最も超高難度のストーリーが展開されそうだ。 少しの台詞の聞き逃し、シーンの見逃しが、物語を理解する上で致命傷になりかねない。 前記事で出てきた謎をあらかた箇条書きしてみたが、それでも足りないほどの情報量が詰まっている。何度も同じシーンを繰り返して観て思い知らされた。もはや全てのシーンが意味を持っていると言っても過言ではない。歩きながら見るなよ! 今回は、作中に出てきた名詞や用語や重要人物や重要発言のひとつひとつに絞り、掻い摘んで整理しようと思う。 時系列順に要点を挙げたつもりだが、どうしても時系列順に説明しきれない箇所が多くなってしまった。 思考を整理するために自分用として書いた記事なので、誤っている点は多々あると思う。あしからず。 【1話サブタイトル「ライラプスの召命」】 ライラプス=「北欧神話の猟犬。獲物を決して逃さないという運命を持っている。絶対に逃げられる運命を持つ狐の狩りを命じられるが、決着が付かず、ゼウスに石に変えられる。」 本話終盤の常守の独白で「正義を失わせてはならない」「同じ真実を追うものが現れた時私は彼らに指命を託すことにした」「見えざる敵にたどり着くことを信じている」と思いを託した「猟犬」、慎導灼と炯・ミハイル・イグナトフ。この両名をライラプスになぞらえられているものと考えるのが妥当だ。しかし、PSYCHO-PASS世界で猟犬とは、しばし執行官を指す言葉に思われるが、これはただの比喩表現だろうか。それとも、この二人の監視官が、かつての狡噛のような猟犬に落ちることを匂わせているのか。定かではない。では、ライラプスが追う「絶対に逃げられる運命を持つ狐」とはなにか。本話中盤に重要発言があった。後述するセブンインスペクター些々河が与根原に「俺達は羊にはならない。この社会で成功し狐になる」と言っている。そして冒頭、灼が「必ず見つけるよ、真実を」と父の幻影に言う。狐の正体とは「インスペクターが持つ何らかの真実」のことだろう。何の真実なのかはまだ定かではない。そして灼の幻覚に現れる父親と、中盤のメンタルトレース(後述)時に現れた幻影と、犯人の顔が、まるで狐か犬のようなものに見える。この理由もまだ明らかになっていない。灼と現場に向かう車内で炯が「これが最初の一歩だ」と言う台詞から察すると、二人は

PSYCHO-PASS 3 第一話 謎の箇条書き

2の一話みたいに分かりやすい話ではないので、提示されてる要素を箇条書き。OPついては書かない。 ・常守が捕まって文章を書いてる。 ・夕陽が当たっている謎の部屋。灼がいて、次のカットで 炯と後ろにいる謎の女。 ・車内で運転席の父に「真実を必ず見つける」と夢の中で言う 灼 。犬のような頭の幻覚が見える。運転席には 炯 。 ・メンタルケアが効かないと思われる灼。 ・難民問題。鎖国主義と開国主義。 ・灼のメンタルトレースにはイヤホンが必要。 ・何者かに命を狙われ薬物飲んで逃げ、輸送機事故に見せかけて殺されるリック。 ・データの消えたスマホ。 ・リックの謎のヘッドギア ・リックと同乗し死んだトランスポート社梅沢営業部長の名刺に驚き横領する如月。 ・新たにコングレスマン(議員)としてリレーション(関係)に参加する焔という男 ・議事進行ミドルウェア「ラウンドロビン」というAIがいる。 ・コングレスマンに適正するユーザーが参加できる。 ・事案について議論?している ・リレーションには親があり、参加者はジョインするゲーム。 ・欠席や妨害は「執行対象」になる。 ・リレーションはこの世界の真の自由をかけたゲームとのこと。 ・リックの色相はトランスポート社に雇用されてすぐ悪化した。 ・トランスポート社上級役員 与根原がセブンインスペクター(監視者)些々河に懐柔し毒殺(寝てるだけか?)。「この社会で成功し羊でなく狐になる」と言う。 ・ファーストインスペクター梓澤が事故の主犯か。 ・梓澤はダイヤグラムという能力を使う。 ・灼の能力は状況や推理や統計を元にして他人になりきる能力。 ・リックは数学と金融工学の天才。 ・リックは何かになにかに悩んでいた。 ・リックはトランスポート社の住宅ローンの管理票を隠していた。 ・セブンインスペクター些々河はトランスポート社顧問。の天下り元官僚 ・コングレスマンはシビュラの干渉を防ぎビフロスト利益を守るのが指命 ・コングレスマンは事件に関与している ・コングレスマンはゲームをトランスポート社の存続の是非でゲームをしている。 ・行政がトランスポート社の株価を守ることを「面白くなってきた」と評するコングレスマン白金 ・灼と 炯を 「アツシさんの息子か」とこぼす梓澤 ・メンタルトレースで再び犬

【進捗14日目】

イメージ
棒人間でコマ割りの80パーセントは完了。 しかし、映画やアニメばかり見てるとコマの形を16:9サイズに無意識に切り取ってしまう。 漫画原作アニメと原作漫画の演出は、やっぱり違う。そりゃ監督・演出者によって違うだろって話だけど、アニメは16:9のフレーミングで秒刻みの時間に沿って映像演出が行われる。よって漫画と同一のモンタージュの原作再現系アニメでも印象がガラッと変わる(予防線張っておくと例外はあると思います。単に夏にやってた一つのアニメ見て思っただけです)。 比べると、漫画は極めてヴァンキッシュ(PS3のアレのことではない)な媒体だ。 まず、フレームが2種類ある。1ページor見開き1ページのページというフレーム。 そしてページの中にあるコマと呼ばれる最小単位のフレーム。 コマ割りは無論モンタージュの編集作業だが、右上から逆Z字状に読まれ、大小とカタチでダイナミズムを表現する。そしてコマにはぶち抜きなどの破壊行為が許される。 描かれる人物も無論実写とは違う。人物はフキダシやフキダシ無しの文字で喋るし、デフォルメに、迫力のあるパースに、変幻自在。人間がまるでピカソ化される。 そして基本的な映画技法、そして絵画や写真に使われる技法を抑えて、漫画の観念と両立させることを常に考える。 有吉あたりの芸人が漫画は映画監督並の才能必要とされるんだねすごいね~って何かのバラエティで見たが、厳密にはそれ以上の才能が必要だ。 こんな、映像より不自由で、映像より自由な総合芸術他にあるか? あ。ゲームがあったか。あれも独特なシステムで総合芸術に挑むものだ。 しかし、漫画。白と黒で描かれる総合芸術。ある種、ダダイスティックな魅力がある。 近況。とにかく「今は」順調に進んでます。棒人間でお人形遊びたのちー!80%ぐらいネーム出来たって言ったけど、修正の余地結構ある。 更にここからキャラなり演出なり起こしていく作業が地獄だね…。 しかし映像ばかり見てると研究心が燃え盛ってしまって疲れる。漫画を読むと更に疲れる。ついつい、モンタージュからも時制からも自由である、ゲームや文学や音楽やオモチャやインターネットに癒やしを求めがちになってしまいます。

近況を報告というより自己整理する【漫画進捗・再々リセットおよそ8日目】

いま僕はちゃんと漫画、描いてます。 毎日描いてます。 このブログはもともと映画批評の捌け口として作ったんじゃなくて、ワナビの自分に対する日記として始めたなのねん! そういうわけで。あーでもねえ、こーでもねえと原稿を丸めてゴミ箱にポイと捨てる、数週間前までのスランプ期は、もはや脱したと言っても過言ではないほどマンガ制作が進んでます。 とにかく、登場人物の人物像。そして彼らが織りなすシナリオ(まだ文字ネーム、プロット段階だけど)の起承転結を纏まったのが先月末。 先月は「己の人生の転換期」に気付かされ、漫画家ワナビーを25歳になっても懲りずに喧伝していることをリア友に呆れられ、いいトシこいていつまでも高校生のような「大人子供(フリークス)」感覚で居る自分を、友人の一言で初めて客観視できて、とにかく焦燥感を覚えました。 ―――「30まであと5年も、無い。」 商業作家を目指すにあたり、作家生命のラストスパートと言っても過言ではない段階に突入したことを友達の叱咤激励で思い知らされまいた。 なんせ、僕のキャリアは、商業賞一次落ち、大昔pixivランキングデイリー底辺で2回乗った程度(しかも流行りに乗っかって)。 これはいま一度、人生設計そのものを考える時期に辿り着いたと、この年齢になってようやく気付いたものです。 ともかく、9月中に人物とプロットをフィックスさせることは完了。 10月の今は文字をページに落とし込んでコマを割っている最中です。他の漫画やハウツー本はもちろん。映画アニメ文芸エロ媒体Twitterで流れてくる発言やイラストにも、創作に対する貪欲な視点で読み漁り見漁っております。 ネーム描いてるのと同時に漫画技法を一からお勉強中です。 そこで僕は自分を追い込む意図を込めて目標を立てています。「30までに賞取って編集つけられなかったら、キッパリ夢を諦めて漫画を趣味・同人でやる。」壁に掛け軸かけてもいい。 これくらい自分のケツ叩かないと前に進めないでしょう。 しかし、2017年に処女作の漫画を描いてたときよりも、技法や流行について勉強したことをページに落とし込む今のマンガ制作の作業の方が楽しめています。人はやはり成功よりも失敗から学ぶ生き物! リアルな話、親の老い先にも限界が見え始め、画力の限界にブチ当たりつつある、いま・ここで、俺がやるべきこ

JOKEとは・・・。

 笑い飛ばすことは一つの防衛機制で、被差別的な境遇に置かれてもそれを笑い飛ばせれば、処世術となり、上手く世間と折り合いを付ける道具になる。 しかし、笑いという観念が失調してしまう。笑いの定義がわからない人間はどうなってしまうのか?  それが「ジョーカー」という映画である。  笑いを生業にしたいアーサーが、幾度もスベって虐げられ、なりたいものになれずに足掻くワナビ感覚が、一種のお笑い芸人サクセスストーリーのように描写される。 しかし、サクセスものとは二律背反の、殺意の香り・サイコホラーの感覚が隣り合わせでアーサーの日々を密着して映している。  アーサーには、笑ってごまかす、笑い飛ばすという精神的なイニシエーションが行えない。それは先天的なものか、親子関係からきた後天的なものかをこの映画は決めつけないが、心の繊細さ、優しさ、他者との共感センスの高さが、アーサーの被差別・格差を笑い飛ばす防衛機制を阻害しているのだ。  ゆえにアーサーの殺意は、人をバカにして笑った人間に標的が及ぶ(母は例外として)。  そしてテレビ番組を通して、社会そのものが弱者をバカにして笑い=優越感を得ていることをアーサーは確信する。  ジョーカー(=ジョークを行使する者)が、コメディ(=ジャンル)に乗り込み、コメディを乗っ取る。この構造は、人をバカにして格差を作る社会を、ある一つの意志を持った行使者たちが、義憤によって変革する様相に変わって行く。まるで社会がコメディ舞台であるように。  これは劇場型犯罪と言うべきだろうか。(日本人なら攻殻SACの笑い男スタンドアローンコンプレックスに馴染み深く、それに近しい情況だ。)  よってこの映画は極めて演劇的な手法で撮られている。舞台で言う、下手側に常に置かれていた虐げられしアーサーは、紆余曲折を経たラストシーンで、上手側にある、診察室の扉から血痕を足跡に付けながら、ヴィラン・ジョーカーとなって登場する。この変容の仕方は面白い。そして下手に退場したと思いきや、下手側から再登場し、上手側の通路へと消えていく。これは、正義と悪も同じであることを示唆することを意味している。すなわち舞台作法の踏襲である。  ジョーカーを、特異性の持った悲劇の主人公とも撮らない、誰にでも起こりうるような殺意を持つ