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『機動戦士ガンダムF91』(1991) アサクリとFGOと「ガンダム」と。

 ガンダムで一番好きな作品はF91かもしれない。 という自分語りはさておき。  まず、『機動戦士ガンダムF91』という作品設定は、極めて近代世界史に影響を受けている。  コスモ・バビロニア帝国が建国を掲げたフロンティアⅣでは、古臭い街が立ち並び、コスモ貴族主義の城下町として相応しい景観・背景美術が展開される。基本的にシーブックたちが戦うのは、このフロンティアⅣの内部と近辺だけだ。 ・コスモ貴族主義とはなにか  総帥マイッツァー・ロナ曰く「 高貴な人間にはそれを伴う義務がある。 」を旨とする、ノブレス・オブリージュ。いわば高貴な精神に基づく思想。 要は気高い品性を持った人間が、法でなく人徳で収めようとする、中世フランス革命期以前の、近代理性主義とは正反対のイデオロギーを掲げる思想である。  翻って、我々の生くる現代。歴史ではフランス革命やアメリカ合衆国独立などが起こり、我々が属していたアメリカ傘下の西側諸国が冷戦に勝利し、共産主義を打倒した世界は自由民主主義・自由経済を手に入れた。 その自由主義の延長線上にあるのが宇宙世紀ワールドの地球連邦政府なのだろう。  しかし、地球連邦政府はジオンとの戦乱や地球圏の管理に疲弊し、法で治める“法治国家”の限界に到達していた。  そこで、宇宙移民者の中で現れたのが“コスモ貴族主義思想”である。 “コスモ貴族主義”は、限界に達した地球連邦のグローバリゼーション。すなわち地球規模で人纏まりにする、アメリカナイズド的左翼思想(仮に地球軍が右翼思想だと、ガンダムSEEDみたいな感じなる)を見限り、さらにはネオナチ化したジオニズムとも訣別し、世界を、市民革命以前。つまり、右翼と左翼が産まれる以前の段階に戻そうと画策する。  ジオニズムは、一年戦争の早期講話の目論見やジオン共和国自治権、サイド共栄圏の言葉を借りるまでもなく、あくまで「利益の再分配」に、終始拘っていた。  しかし、コスモ貴族主義は「利益の再分配」などハナから求めちゃいない。 世の中を、金銭・財産・資本主義に囚われた自由主義社会から市民革命以前へとリセットし、やり直そうというイデオロギー。それが「コスモ貴族主義」なのだ。  そのために、暴走した鉄仮面がバグで大虐殺を起こしたりする。しかし、それはシャアの地球寒冷化作戦とは違い、「利

『PSYCHO-PASS 3』の季節 ~予習篇 ~

 ついに10月期に放送が開始される「PSYCHO-PASS 3」。 2期終盤に語られた「集合的PSYCHO-PASS」とは? 無間地獄のように考え続けていたピースが5年越しに今明らかになる。 もう、伊藤計劃もメタルギアも攻殻機動隊は居ない。ときは2019年。いつの間にか残っていた、ポピュラーで訴求力のあるディストピアものは、「PSYCHO-PASSシリーズ」だけだった。 ・フレキシブルな監視社会  百人のオタクに聴けば過半数答えるであろうディストピアの権化「シビュラシステム」。 それは、オーウェルの「1984」をイメージすると余りにも拍子抜けするほど厳格ではなく、シビュラ統治下における日常パートを見てみれば、一見して自由で、文化水準は現代の延長にあるような社会基盤のディストピアであることが描かれる。 引用すれば「1984」で、思想を検閲する超高度監視社会の元、不穏分子の兆候を持つ者を監禁し「2たす2は5」に代表される洗脳術を行っていたが、シビュラシステムはそんな露骨なことをやらない。むしろ現代精神医学のように“サイコセラピー”を施し、犯罪係数を下げ、犯罪を未然に防ぐために医学的に尽力。犯罪係数がオーバーしたものは逮捕。厚生省に送られサイコセラピー。それでも止むない“係数オーバー”の執行対象は即時射殺で、暴走した市民の“反社会的活動”は終わる。突発的に行われる市民の暴力には、即時行う官憲の暴力行使を“抑止力”とする社会だ。 街には街頭スキャナーがあり、PSYCHO-PASSによる色相判定制度があり、アニメ表現としては過度にグロテスクだが、こうして、現代の延長線にあるような平和的ディストピア像は維持される。  シビュラ社会において大学制度は廃止され(多分、革命思想に繋がる大学課程の文系学問と、学生運動を起こさないために廃止したのだろう)、狡噛たちは職業訓練過程を受け厚生省に入省する。日本の外で度重なる戦争の起こっている世界で、人々は“色相”で決まる将来を追認し、生きている。まるで現代日本の就活生のように。  さて、シビュラシステムとはなにか。 シビュラは、社会規範から逸脱した“免罪体質者”の脳をかき集めた存在である。 中世の完全なる寡頭制の元老院にも似た、選挙で選ばれない免罪体質者集団による非民主的な政治社会。 “近代的自我”をハナか

『ブラインド・スポッティング』(2019)

 怖いのは銃が社会に出回っていることではない。感情の振れ幅が大きい人々の間で銃が出回ることが怖いのだ。  そのような情緒の振れ幅が、この映画には大きく出ている。 自衛のための銃撃と、示威のための銃撃。 抜かず置いてある刃と、斬って脅かす刀と言い換えた方が分かりやすいか。  終盤、POVで撮られたカメラの切り返しには息が詰まる。 ここで行われるカメラワークは、まさに「ブラインド・スポッティング(同時に同じものを見れない)」というテーマを体現するに相応しい撮り方だ。  この映画はブラックカルチャーの訴え。というシングルイシューではない。 人は同時に同じものを見れないことを、終始映している構造の映画だ。  それでも、ラストシーンの車に並んで乗る二人はには安堵を感じる。 ある意味、ロードムービー調に終わらせたのは、社会に送るささやかな希望か。

アニメごちうさ。かわいさの基礎

 そんでもって、今日はごちうさOVAの先行上映も観た。 とにかく、このOVA、ロングショットで状況説明する以外に、キャラクターの可愛さを強調するシーンでは、アイレベルにカメラを置いて、ミディアムショットかバストショットを基本の撮り方にしているようだ。あるいはアオリを多用するシーンもかなり多い。  本OVAでは、驚くほど(一度しかなかった)、フカンでキャラクターを捉えるシーンが無い。しかも、特定のシーン以外では地面が映ってない(30分のフィルムだから仕方ないとして)(しかしテレビシリーズにはあった気がするけど)。  可愛さを描く上での橋本監督の基礎はここにあるのだろう。  余談。リゼちゃんとチノちゃんの仲の良いシーンが観られて満足です。  さらに余談。種田梨沙さんの声の調子が本調子に戻っていた。こんなに嬉しいことはない。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』ドラマアニメのすべて

 京都アニメーションとは、有り体に言えば、とても優れた、唯一無二のドラマアニメの演出屋だ。  京アニのアクションとエフェクトが織りなす作風は、沖浦井上吉成たちが描くような一般的に言われる「作画アニメ」とは別に位置する。 アクションも派手なエフェクトも無い今作「ヴァイエヴァ外伝」では、非常に落ち着いた、ヒューマンドラマ映画的作風が展開される。  全てが報われるクライマックスのシーンまで、広角とアイレベルのミドルショットでフラットに撮られた映像には、あざとい意図の押し付けはない(煽りも俯瞰も白々しい顔のアップも、パンの多用も極めて限定的だ)。しかし、矢継ぎ側に変わるカットと、培われた演出力に裏打ちされたカメラワークは、確かな発想力を持って新鮮な映像を観客に提示される。  それを支えた、編集とレイアウトの緩急、見事なヨーロッパ的背景美術と、色彩と、撮影は、これまでにない高級感と映像の説得力を発揮している。派手なフォーカスやフレアも露出操作もない作風で、ここまで見せられるのは、まさにフランス映画チックなドラマアニメへの挑戦として、見事な成功を収めている言っても過言ではない。  ドラマ映画の良さと、アニメの良さをいいとこ取りした本作は、かつてない成功を収めていた。  個人的に気に入った演出は、ヴァイオレットちゃんの義手の音の「意味」が優しいものへと変わっていくところだ。