「DEATH STRANDING デス・ストランディング」 クリア後の所感。
さて、EDクレジットを見て、サム指命ミッションがなくなり、自分の頭もこのゲームの思想を理解してもいい精神状態にはなった。語ろうと思う。一応ネタバレはあるが、核心に触れるほど読解してもいない。作中届けられるメッセージも全文目を通したわけでもない。トロコンも未達成だ。 まだクリア直後の熱を保った「触り」としての所感を述べる。 ■スネークの分身たるプレイヤーたちの求めた「楽園(ヘイブン)」は、このゲームにはあったのか。 かねてより、僕はデスストの発売前から、メタルギアサーガ全作品の通念であった「楽園(ヘイブン)」を求める思想をデスストでも継承し、それを脱構築するのだろうと予想していた。 メタルギアサーガにおけるヘイブンとは、ザ・ボスの想いによって端を発する。 「宇宙から見た世界は一つだった。」 その想いが、愛国者達、サイファー、ビッグボス、AI、恐るべき子供たちによって歪められ、ザ・ボスの思いは多用なる解釈で様々な勢力に成されていった。 今回は、メタルギアシリーズとは一切関係がない。 が、この「宇宙から見た世界は一つだった」という言葉は小島秀夫の源流としてデスストにも流れている。 デスストランディングは、荒野から世界をやり直す物語だ。 アメリカを繋げたい、人は孤立して生きるものではない、という思想を持つアメリに導かれるまま、我々プレイヤーたちは何もない荒涼としたアメリカ大陸を歩き回る。建造物を建て、他プレイヤーとそれらを共有し、「いいね」で繋がり合う。 小島秀夫監督は、かねてから「デスストで繋がれ!」と宣伝し、この繋がり合うシステムを揺るぎないテーゼとしてデスストランディングを一貫して語り上げた。 荒涼とした世界を、「いいね」で繋がり合うヘイブン。 インターネットの諸害を絶対的な害悪と捉えずに、「いいね」を徹底して肯定する。 この考え方は、私が見てきた作品群でも非常に珍しかった。 誰もがSNSで個人的な安らぎに飼いならされる世界を、少しネットに傷つけられたりした経験を持った人たちは、必ずしも全否定はせずとも全肯定はできないはずだ。SNS疲れという言葉もあり、大多数がそう思っているはずである。 私も心療内科の先生に、「インターネットの人間関係なんて嘘っぱち、人間は対面して初めて関係が発生するもの」と面と向かって言われたものだ。 (