JOKEとは・・・。
笑い飛ばすことは一つの防衛機制で、被差別的な境遇に置かれてもそれを笑い飛ばせれば、処世術となり、上手く世間と折り合いを付ける道具になる。
しかし、笑いという観念が失調してしまう。笑いの定義がわからない人間はどうなってしまうのか?
それが「ジョーカー」という映画である。
笑いを生業にしたいアーサーが、幾度もスベって虐げられ、なりたいものになれずに足掻くワナビ感覚が、一種のお笑い芸人サクセスストーリーのように描写される。
しかし、サクセスものとは二律背反の、殺意の香り・サイコホラーの感覚が隣り合わせでアーサーの日々を密着して映している。
アーサーには、笑ってごまかす、笑い飛ばすという精神的なイニシエーションが行えない。それは先天的なものか、親子関係からきた後天的なものかをこの映画は決めつけないが、心の繊細さ、優しさ、他者との共感センスの高さが、アーサーの被差別・格差を笑い飛ばす防衛機制を阻害しているのだ。
ゆえにアーサーの殺意は、人をバカにして笑った人間に標的が及ぶ(母は例外として)。
そしてテレビ番組を通して、社会そのものが弱者をバカにして笑い=優越感を得ていることをアーサーは確信する。
ジョーカー(=ジョークを行使する者)が、コメディ(=ジャンル)に乗り込み、コメディを乗っ取る。この構造は、人をバカにして格差を作る社会を、ある一つの意志を持った行使者たちが、義憤によって変革する様相に変わって行く。まるで社会がコメディ舞台であるように。
これは劇場型犯罪と言うべきだろうか。(日本人なら攻殻SACの笑い男スタンドアローンコンプレックスに馴染み深く、それに近しい情況だ。)
よってこの映画は極めて演劇的な手法で撮られている。舞台で言う、下手側に常に置かれていた虐げられしアーサーは、紆余曲折を経たラストシーンで、上手側にある、診察室の扉から血痕を足跡に付けながら、ヴィラン・ジョーカーとなって登場する。この変容の仕方は面白い。そして下手に退場したと思いきや、下手側から再登場し、上手側の通路へと消えていく。これは、正義と悪も同じであることを示唆することを意味している。すなわち舞台作法の踏襲である。
ジョーカーを、特異性の持った悲劇の主人公とも撮らない、誰にでも起こりうるような殺意を持つ人物として描くフラットな撮り方は、隣人への恐怖を想起させる。これは海外の映画館でひどく注意喚起されているのも納得だ。
ジョーカーには、まるで「ノーカントリー」のシュガーのような、いつどこで表れるか分からないサイコキラーの恐怖にも通じるところがある。
しかしシュガーと違ってジョーカーは、誰にでも起こりうるような殺意の持ち主だ。
「ジョーカー」は他者への尊重が観客に否が応でも問われる映画である(その辺は、啓蒙的でなく極めてフラットな撮り方なのだが)。
そしてジョーカーが最後に見つけたラストジョーク。ここだけは、人間性を排して描かれるジョーカーの物語「ダークナイト」にシンパシーがある。善も悪も表裏一体なのだと。
・べつのはなし
コメディアンという単語が劇中幾度も使われていたが、DCコミックスにはコメディアンと名乗るヒーローが居る。「ウォッチメン」に出てくる男だ。
彼は悪辣なヒーローなのだが、罪を告悔し涙する場面がある。
そして劇中で世界を動かす巨大なジョークが行使される。というのは別の話になるのだが、このコメディアンはジョーカーの先に居た存在な気がしてならない。
ピエロのジョークの小噺なんか挟まったり、小さな問題が大きな問題になるという感覚が「ウォッチメン」と「ジョーカー」に共通項があるように観えたので、比較するのもまた一興。